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2009年2月21日 (土)

朝日新聞2009年2月17日から連載の「聞く」欄の浜矩子さんの記事が大変面白いので、私のブログに掲載させて頂きます。現在の不況は、いろんな人に苦痛を与えていて、傍観者としてただ見ているのは何かうしろめたいと思っていますが、大変優れた記事で、分かり易く書かれているので、思わず引き込まれました。

2009年2月17日(火)
 ゆがんだ経済の修正が始まった
 世界がのみ込まれた同時不況。同志社大の浜矩子さんは国際経済・金融が専門の教授だが、30年以上前から膨張する米国経済に警鐘を鳴らし、今回の混乱を早くから見抜いていた一人だ。私たちは混乱から何を学ぶべきだろうか。                       ◇
 「風雨をしのぐ屋根がほしい」。金融激震の発端となったし「サブプライム問題」は人間の根源的な欲望から始まりました。米国の投資銀行や投資ファンドは、その夢につけ込んだ。彼らは信用力の低い住宅ローン債権を証券化した商品の危うさを十分に知っていました。
 ただ、危ない橋を渡らないとメシが食えない。だから「この橋は危なくないよ」と言いながら、誰よりも早く渡ろうとしたのです。強者ではない。「狂者」の論理でした。彼らは商品の組成、転売を繰り返して利益を追いました。でも、グローバル化が進むなか、それがいったん破綻すると、影響は瞬時に世界に広がり、実体経済を巻き込んだのです。
 「米国の世紀」と言われた20世紀を象徴したのが、住宅と自動車産業でした。家から勤め先までマイカーで通うライフスタイル。でも、今はこの両輪に鉄槌が下されています。皮肉と言うか、歴史はバランス感覚に富んでいるとしか言えません。
  私は今の混乱を「グローバル恐慌」と呼んでいます。ゆがみすぎた、膨らみすぎた経済の修正作業が始まったのです。恐慌の本質を探るには、三十数年前の米国の金融政策から検証する必要があります。 (この連載は編集委員の多賀谷克彦、写真は伊ケ崎忍が担当します)

2009年2月18日(水)
 原点は「ニクソン・ショック」
  今回のグローバル恐慌の原点は1971年にあります。米国がドルと金の交換を停止した「ニクソン・ショック」です。米国が保有する金より、はるかに巨額のドルが世界に出回ってしまったのです。ドルのありがたみが薄れ、ドル暴落の危機から脱するための交換停止でした。ドルが金の借用を背景とした基軸通貨ではなくなった日です。
 米国に戦争直後の勢いはなくなっていました。下着ぐらいはつけていたかもしれませんが、裸の王様。そこで開き直ったのか、金のたががはずれたからか、ドルをパンパン刷って世界中からモノを買い続けた。
 究極の「自分さえよければ病」ですよ。本来なら身の丈にあったレベルまで生活水準を落とし、財政赤字を減らさなければいけなかった。
 結果、米国は巨額の財政赤字と経常赤字の「双子の赤字」を抱え込むことになりました。これが国際的な不均衡を生みました。
 90年代、私はこんなことを言っていました。「やせる男がささげたカネで太った男が狂ったように踊っている」と。ささげる男とは「失われた10年」の最中の日本。国内に行き渡らないカネで米国債を買い、借金の泡の上で踊るのは米国でした。
 片方に赤字が積み上がり、片方に黒字が積み上がる。こんな丼勘定、企業なら持ちません。私は「このゆがみを調整する時がいずれ来る」と言い続けてきたのです。オオカミ少女、いやオオカミおばさんか。
 でも、ドルは決済機能をもち、各国ともドル資産を抱えてきた。暴落すると大騒ぎになる。だから、不均衡は分かっていても、下着だけの王様を支えてきた。みんな、この体制が変わらない方が楽だし、変わると怖い、変わるはずがない、と思い続けた。でも、やっぱりオオカミは来たのです。

2009年2月19日(木)
 日本の超低金利 マネー暴走演出
 経済活動は時として、いかにそれが人間の営みに根ざしているものかを教えてくれます。
 人間心理を表す言葉として、「分かっちゃいるけどやめられない」というのがあります。投資銀行もそうでした。住宅ロ」ン債権の証券化商品の危うさを分かってはいても、隣の金融機関はやっている。自分だけがやめるわけにはいかなかった。顧客から「あの商品はないの」と言われ、「ありません」とは怖くて言えませんでした。
 では、こうした暴走の底流には何があるのでしょう。そもそもは世界的なカネ余りです。ここでも「カネをささげるやせる男」、つまり日本が一役買っていました。
 日本はデフレを克服するため、長く超低金利の状態を抜け出せませんでした。世界中の金融機関やヘッジファンドは、その超低金利の日本の円で資金を調達し、利回りのいい欧米の通貨に換えて運用しました。いわゆる「円キャリートレード」です。行き場のなくなった日本国内の金融資産も、どんどん外へ出て行ったのです。
 昨年までの資材、資源の高騰も、こうして資金を調達し、活用したヘッジファンドなどの仕業と言われました。
 円キャリートレードで世界に押し流された資金は、奇抜なアイデア、金融工学を駆使して踊らせないと高い収益を生まない。そこで高度な証券化の技術が生かされた。サブプライム関連の証券化商品もそうです。円が隠れ基軸通貨と呼ばれたゆえんです。こうした流れは金融の世界から、ある意味で「人」を消してしまいました。

2009年2月20日
 人間不在の経済学 恐慌生んだ
 行きすぎた経済活動に警鐘を鳴らすのは学者、研究者、メディアの仕事です。今回もそれぞれが役割を果たしていれば、恐慌を防ぐことは難しくても、局地的な混乱で終わらせることができたかもしれません。
 でも現実はどうか。逆に、今回の金融の暴走には、経済学が一役買ってしまいました。
 70年代、コンピューターが大型化したころから、経済学は変わってきました。経済ほど人間らしい営みはないのに、経済学が人間をつまらないとか、人間は分からないと言い出した。数字で証明できない経済事象は議論しないという風潮が広がったのです。経済予測がはやり始め、大学でもコンピューターを回すことが優先されました。
 米国で経済学部に学生が集まらなくなっていたんです。だから「文学的なことを言っていては経済は語れない」という雰囲気になり、自然科学を意識し始めた。それが格好良い時代だった。流れに乗りたかったのでしょうね。いかがわしいビジネススクールまで登場しました。
 アダム・スミスやカール・マルクスのように、人の欲望や、それによって起こる人の行動を語る学問でなくなった。経済学から人がいなくなってしまったんです。
 典型的なのが金融工学です。言葉自体にゆがみを感じます。金融とは人が人を信用する営みです。それがエンジニアリングの対象になってしまった。金融と工学なんて水と油ですよ。
 97年には、デリバティブ(金融派生商品)の価格算定式を完成させた2人にノーベル経済学賞がいっちゃった。恐慌の火種になった証券化商品も金融工学のなせる業です。しかもリスクを克服したと言い張った。それが幻想だったことも今回の混乱が証明しましたけどね。

2009年2月21日
 官はさぼり続けてきた
 経済のグローバル化と格差問題は直結しています。競争相手が増えた土俵で企業が勝ち残るには、人材、取引先を選別する必要がある。役立つものは抱えるが、そうでなければ切り捨てる。それが格差を生みます。この状況を私は「グローバル・ジャングル」と呼んでいます。
 これは、護送船団方式という全員参加型社会だった日本にも、あっと言う間に広がりました。
 かつての日本的経営は驚くほど、経営的ではなかった。むしろ公的部門よりも官業的でした。落ちこぼれをつくらず、終身雇用制という福祉、年功序列型賃金という平等の仕組みを築いた。だから官は何もしなくてよかった。本来、官は市場の外部装置として、市場で生じる痛みを解消するために存在する。我々はそのために納税してきました。でも、彼らはさばり続けました。
 今、この矛盾が噴き出しています。日本で格差が顕在化したのは01年ごろから。「いざなぎ超え」と言われる景気回復期と重なります。
 それ以前、日本企業の大半は集中治療室に入っていた。復帰後、いきなりジャングルに放り込まれました。生き残るために正社員の採用を控え、非正規社員を増やしました。今、かつてない規模の非正規社員の解雇が始まっています。
 だが、雇用調整はやむを得ないと考えるのは敗北主義でしょう。と言って正社員を増やせば企業の重荷になる。まさに「黄金の均衡点」を見つけ出さないといけない。落ちこぼれる人のために、仕組みをつくっておく必要がある。そのためには、さぼりの官が弱者救済の仕事をちゃんとしなければいけないのです。

2009年2月24日
 対症療法ばかりの金融サミット 
 グローバル競争を強いられている企業が雇用を守りつつ、破綻に陥らぬようにカジを取る。その「黄金の均衡点」を見いだすのはものすごく難しい。
 「では、全世界で生産割り当てでもやるか。日本は今年、何万台でお願いします」となると地球的全体主義になってしまう。これはまずい。
 この先は知恵の追求です。今回の恐慌の発生原因を探り、対応策を見極める必要がある。その議論の場としてはサミットも有効なのかもしれない。ただし、今は形式的になりすぎています。
 と言うのも、サミットからも、様々な国際会議からも「人」が消えています。各国首脳には、人と人が知恵を出し合い、責任をもって危機を乗り切ろうという志があるとは思えません。政府は危機管理のためにある。今こそ仕事をしてもらわないと困るのにサミットは「発言できた」 「テレビに映った」という場になってしまった。
 晩餐会はやらなくていいですよ。やるとしても、会場も誰も使わなくなった公民館とか、コンサートホールでやる。開催場所は毎年、最も悲惨な場所で、なんてのもいい。昨年11月の金融サミット(G20)でも、目先の議論ばかりでした。金融のあり方でも、例えば「格付け機関の規制のあり方は」など、ちまい話ばかり。大づかみの状況認識の共有から議論しなければなりません。
 個別問題の対症療法に追われすぎています。まるでモグラたたきですよ。モグラが出て来てもいない所までたたいている。やはりモグラは、いぶりだして一網打尽にしないといけないんですよ。

2009年2月25日
 金融の世界に「人」を戻すには 
 暴走した金融の世界にどうやって「人」を戻せばいいのでしょうか。高齢化や少子化に伴って、健康、介護、看護など資金需要の高い分野は少なくありません。どうやってカネを回すか。政治が本格的に考えなければならないテーマです。
 昨年秋のリーマン・ショック後、自治体や大学がサブプライムの証券化商品を買っていて、損失を抱えたことが明らかになりました。「そんなカネがあるなら、病院でもつくって」と言いたい。
 医療や福祉分野であれば、「人に戻る」という考えはきれいにつながります。「貧者の銀行」としてノーベル平和賞をもらったバングラデシュのグラミン銀行だって、発想の転換です。
 配当報酬、つまりリターンにしても、今までの水準を復活させる、というのではだめなのです。例えばカネが暴走して、とてつもない消費が起きた一つの弊害として、環境破壊があげられます。
 「人」を考えたつつましいシステムが動けば、地球も元気を取り戻せる。ここまで環境を追い込んでしまうと保護する必要があります。それでも環境、グリーンだけが世界同時不況を克服する魔法のつえのように言われるのはいかがわしさを感じます。言葉が独り歩きすると、人間は思考停止に陥ります。戒めながらやらないといけません。
 バイオ燃料にトウモロコシを使ったら食べる分がなくなったなんて、漫画のような話です。投機も起きます。1人がバイオ燃料が良いと判断しても、世界中でやれば不都合が生じる。合成の誤謬です。ここでも黄金の均衡が求められています。

2009年2月26日
 金融管理 理想は「サファリ」 
 グローバル恐慌後の国際的な金融管理体制とは、どんなものでしょうか。私のイメージはサファリパークです。かつて金融の世界は動物園だった。銀行は「銀行」、証券会社は「証券」というおりの中にいた。どのおりも担当者が厳しく管理していた。来園者も安全だったし、自己責任なんて気にする必要もなかった。おりの外からちょっかいを出しても動物は何もできなかった。
 金融自由化が進み、米国では99年、銀行による証券業の兼営が可能になり、動物はジャングルに放たれました。危険な動物がどこに潜んでいるか分からない。
 欲に目がくらんだ人間が希少動物を捕獲しようとして大けがを負ったのが、今回のリーマン・ショックです。今のままではまずい。でもこんなに複雑、グローバル化した金融を、動物園に戻そうとしても、管理不能に陥るのは明らかです。
 どうすればいいか。動物園とジャングルの中間がサファリパークです。動物はおりから出ていますが、監視塔があって、来園者に危険が及びそうだと、管連人が出て行く。
 入園する前に、来園者には危険な場所を伝えておく。「車を降りたら危険な場所はここ。それでも降りるのなら自己責任ですよ」と。動物もおりの中で軟弱になるのではなく、生存競争の中で、本能を忘れずに生き生きとしている。そういう状況をどうつくりあげるか。
 新たな仕組みが必要です。世界的中央銀行というのは無理がある。一つの価値を押しつける恐れがあります。やはり通貨の番人たる各国の中央銀行が金融のあり方に、もっと責任を持つべきでしょう。今までグローバルな金融システムの管理、監視体制はなかった。各中央銀行が表してこれを見張る。それを「Gなんとか」で話し合うべきなのです。

2009年2月27日
 日本のカネ 呼び戻せばいい
 日本経済の回復に内需拡大の必要性が強調されています。でも、経済がグローバル化していて、どこからが外で、どこからが内なのか、すっきりしないんです。
 外国にカネを貸して、外国に日本製品を買ってもらうのが外需だとすれば、カネを国内で使ってもらえばいいわけです。金利を上げて日本にカネが集まるようにすれば、バランスがとれてきます。
 でもおかしいのは、カネ余りなのに、そのカネはどっかへ行ってしまっていて、財政出動どころか、政府紙幣の話まで出て、内需拡大と言っている。すごく効率の悪い話です。海外で跳びはねているジャパンマネーを呼び戻して使えば、収益もあがり、税収も上がる。それが、最も本質的な解決方法と患うのです。
 確かに農業、介護、環境、医療などにカネを回すことは必要です。弱者救済も必要。でも、内雫拡大いう表現は、すごく古い、予算の前倒しとかも。昔の名前で出ていますって感じですよ。本質から解きほぐす言葉になっていない。
 欧州連合(EU)が1年ほど前、グローバル経済の犠牲者の救済プログラムを議論していました。リストラされに人やワーキングプアの人が対象でした。立ち消えになってしまいましたが、今振り返れば、本質を突いていたのかもしれません。
 あしき平等は非効率ですが、ふるい落とされた人を経済活動の中に戻して、経済基盤を広げる、そして有機的な役剖を果たしてもらえるような政策体系をつくればいい。
 オバマ米大統領が就任演説で「一部の人間に富を集中させることによって問題は解決しない」と述べたのも同じです。日本も内需拡大という言葉ではなくて、経済基盤の再生、拡大という言葉を使うべきではないでしょうか。

2009年2月28日
 私たちは「地球村」の住人
 今回のグローバル恐慌から何を学ぶべきでしょうか。「投資銀行のリスク管理が甘かった。もっと精度を高めるべきだった」と言ってしまっては、歴史観もないし、小手先の議論で終わってしまいます。
 世界は冷戦が終わって非人間的な状況から解放されたはずだった。なのにいつの間にか、経済活動から人間が消えてしまいました。恐慌の発端となった住宅ローンは相対取引が本来の姿なのに、証券化され、不特定多数を相手にするようになりました。
 グローバル化で地球はつながった。地球の裏側にいる人々にも手を差し伸べられるようになったのに、国家の枠に引きこもり、自分のことしか考えられなくなった。過去には社会主義が克服しようとしたが、仕組みだけで魂が入らず、全体主義になってしまいました。
 保護主義への懸念が広がっています。世界不況の中で誰かが抜け駆けしようとすると、奈落の底に落ちていきます。企業だってこんな時には、トップが一致団結を呼びかけ、歯を食いしばって経営再建けあたる。地球経済だって同じはずです。グローバル・ビレッジ(地球村)のような発想がほしい。
 グローバル化の時代、仕組みだけを整えても運営はできない。精神論ですが、心意気、魂、人間らしさが出てこないと、輝きは増しません。デュマの「三銃士」に「一人はみなのために、みなは一人のために」という言葉があります。人間の一段の浄化が求められているのです。                    =おわり
 (この連載は編集委員・多賀谷克彦、写真は伊ケ崎忍が担当しました)

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